1960 秋田市有楽町にトルコ風呂&民謡酒場オープン
▼秋田の映画王「トルコ風呂」をつくる
新聞広告 昭和34年
昭和34年(1959)の暮れ、『秋田魁新報』に掲載されたミス・トルコ(トルコ嬢)と、喫茶&バー従業員を募る広告。小学校教員の初任給が9千円ほどの時代である。
翌35年(1960)1月10日、秋田市有楽町「有楽会館」一階に県内初の「トルコ風呂」オープン。隣接した同階では収容人員480人の映画館「秋田大映」が前年11月に開館していた。
新聞広告 昭和35年
開店のごあいさつ
新春のお喜びを申しあげます。
当有楽会館建設工事も昨年末第一期工事の秋田大映が完成し、第二期工事を鋭意進めておりましたところ、このたび完成し、当館の直営として一階「秋田トルコ風呂」二階洋酒と喫茶「エデン」を来る十日より開店いたすことになりました。
尚、三階は第三期工事として一月末開場の予定でございます。 ご承知のとおりトルコ風呂は秋田市において初めての企画でありますが、大衆風呂及び各個室の設備は近代的にして清潔とサービスに徹底して皆様のご来店をお待ち申します。株式会社 有楽会館取締役社長 村山多七郎 常務取締役 池田捷司
トルコ風呂ご案内
◎営業時間は毎日午前11時から午後12時まで
◎大衆風呂(蒸気室付)一回一名様の料金はサービス券(紅茶)付きで100円です。
◎外に個室もございます。(1時間500円)
◎予約も申し受けます。
◎ご入浴のタオル、石けんを準備してございます。
医学の上を行く!!
あなたの健康にトルコ風呂!!
当トルコ風呂は乾式、湿式の併用で、発汗作用を促し、脂肪の分泌を調整し血行を盛んにするする働きがある外に、皮膚面からの新陳代謝を高めますので、疲労の回復はもとより、リウマチ・胃腸病・神経痛・気管支喘息の治療等に効果があるばかりでなく美容にも素晴らしい効果を発揮しています。
今日のお疲れをとり、明日への活力を生み、お肌をすっきり美しくするトルコ風呂をどうぞ
蒸気風呂・浴槽・マッサージ台・入浴用品・理容用具等 一切が取揃えてございます。喫茶は最高の雰囲気!
洋酒はデラックスバー
美しいスタンド係が、皆様のお出でを心からおまち致しております
エデン 二階
性風俗店である「ソープランド」はかつて「トルコ風呂」の名で営業していたが、戦後復興期の日本に誕生した初期「トルコ風呂」は、スチームバスを備え、男性には男性が垢すりを行い、休息室でコーヒーやタバコの接待がある、中東のハマム、いわゆる「トルコ風呂」をヒントにした、現在の健康ランドに近い、いたって健全な保養施設であった。同時代、性風俗店としての「トルコ風呂」もすでに存在していたが、その話はまた別の機会に。
銭湯の料金が大人10円の時代、「秋田トルコ風呂」の料金は大人100円(個室1時間500円)と高額。それが敬遠されて利用者が少なかったせいか、オープンして間もなく、大人50円・子供30円(個室PM2:00~5:00まで300円)に値下げしている。
東京「山王ホテル」トルコ風呂
▼足軽値段で大名遊び・民謡酒場「有楽」誕生
昭和35年
「秋田トルコ風呂」がオープンしてほどなく、三階に民謡酒場「有楽」オープン。キャッチフレーズは「足軽値段で大名遊び!」。県内初の民謡酒場であった「有楽」は、地酒を飲みながら本場の秋田民謡を堪能できる店として人気をあつめ連日盛況、観光客の定番コースとして名をはせる。
昭和30年度「NHKのど自慢全国コンクール民謡の部」で「秋田おばこ」を唄って優勝した千葉千枝子と専属契約を結び、浅野梅若門下の若き内弟子たちや、今では大御所となった小野花子も舞台に上がり喉を鍛えた。
来店する県外客の多くは、秋田民謡を始めて聴き、若い踊り子のはつらつとした舞い姿を見て一種のカルチャーショックを受けた。‥‥中略‥‥
有楽の店内は八十畳の畳敷きで、客席の真ん中を通路がさえぎり、それが小上がりの舞台まで続いていた。この通路は歌舞伎の花道を真似たものらしい。民謡本場の仙北地方から生まれた「ドンパン節」や「デベドド」が披露されると、仲居らもこの花道に並び、若い踊り手と共演した。有楽の舞台が華やかに耀き、客の投げる“お花”が舞台で乱舞した。県内の好景気にも恵まれ、県都の繁華街ががぜん、にぎわいの様相を見せはじめ、「秋田民謡」は観光に一役買って、「秋田米」と美酒とともに秋田を代表する一つに数えられた。
倉田耕一著『浅野梅若』三味線一代、その時代の人々(無明舎出版)より
営業前の時間を利用し、浅野梅若らを講師に迎えて開かれた民謡教室から、多数の民謡歌手が誕生。従業員として社長宅に住み込みながら、「有楽」の舞台で修業をかさねた川崎マサ子は、昭和41年度「NHKのど自慢全国コンクール民謡の部」で日本一に。東京において「民謡王国秋田」と題した音楽会を10年連続で開催するなど、「有楽会館」経営者・村山多七郎氏は秋田民謡の発展と普及に尽力する。
秋田船方節 川崎マサ子
▼うたごえ喫茶誕生・歌声さんざめく有楽会館
昭和37年(1962)、喫茶&デラックスバー「エデン」が、当時若者のあいだで大流行していた「うたごえ喫茶」として新装オープン。
うた声喫茶誕生!
二月一日より
市内初めての企画
若人集いの店
伴奏ピアノ アコーデオン
愛唱歌集進呈有楽会館二階 エデン
新聞広告より
若さいっぱい!! 楽しさいっぱい!! うた声喫茶
◎6月3日(日)より変更
6時半より連続演奏
◇武蔵野音楽学校出身 谷信悦氏
◇土、日、祭4時より(元わらび座)棚橋晴生氏特別指導うた声バスで寒風山へ!
◇会費300円(昼食付)
◇棚橋先生同行(歌集持参のこと)
◇申込みは会費を添えてエデンまでうた声喫茶 エデン
新聞広告より
「北上夜曲」「北帰行」「山のロザリア」「川は流れる」「山男の歌」……最新のヒット曲はすべて“うたごえ喫茶やうたごえ酒場”から生まれるといってよいほど。その風潮に乗って秋田市有楽町にことしからお目見えした県内最初の“うたごえ喫茶には、開店以来連日超満員という好景気を続け“うたごえ”好きな現代若者気質を反映している。
ピアノとアコーデオンの伴奏によって、客が合唱する時間は、第一回が午後六時半から七時迄、以下八時半、九時半、十時半にそれぞれ三十分間合唱する。そのほかの時間はレコードでうたごえを流す。のどに自信のある客がマイクの前に出て行って、入口で渡された愛唱歌集第一集の中から好きな曲を歌うと、それについて歌声がわきあがるといったふん囲気は、なかなか自然で、何事にも自ら参加することに最も意義を感じる若い人たちの積極的な行動力が感じられる。愛唱歌集には前のヒット曲のほか「トロイカ」「灯」「雪山賛歌」「この道」など全部で二十三曲収録されているが、最も人気のあるのは「川は流れる」「山のロザリア」など最近の曲、それに「ゴンドラのうた」のようなリバイバル曲。
客層は圧倒的にハイティーンから二十年代にかけての学生、勤め人が多く、アベックや職場グループの人たちが目立つ。たまには中年の紳士も現れて、スタンドでハイボールを飲んでからピアノをかなでて拍手を浴びる光景なども見られる。一杯六十円のコーヒーで四時間半もねばる心臓組もいるそうで、六十人収容の客席はいつもいっぱいだが、席があくまで何十分でも立って待っている熱心なうたごえファンも少なくない。
歌好きなある製パン会社の運転手(二五)は「ぼくは開店以来、毎日通ってマイクの前で歌い続けています。自分の歌に、みなさんが文句もいわずついてきてくれるのが、じつに気持ちがいい。一曲歌い終わると気分がさっぱりしてその日の仕事の疲れも忘れます」とうたごえ喫茶のムードを礼賛していた。女性の客でも、勇敢にマイクをかかえて、ジェスチャーたっぷりに歌う若いBGも、たまにいる。近く客のリクエストを集めて歌唱歌集の第二弾を出すそうだが、大都会なみのこの“まちのうたごえブーム”は、まだ当分続きそう。
昭和37年『秋田魁新報』より
歌唱指導者の棚橋晴生氏は能代市在住で、最近もうたごえサークルでアコーディオンを演奏、アトリオンでうたごえ喫茶を開催するなど、ご活躍のようす。娘さんは能代と秋田でバレエスクールを開いている。
二階のうたごえ喫茶、三階の民謡酒場、この時代の「有楽会館」は、はつらつとした歌声に満ちあふれる音楽の殿堂であった。
▼「トルコ風呂」廃業から「有楽会館」解体まで
昭和38年
華々しくオープンした「秋田トルコ風呂」はわずか数年で廃業。短命に終わった一因に、県外で「トルコ風呂」を名乗る特殊浴場(のちのソープランド)が出現しはじめたこともあったのかもしれない。
昭和38年(1963)、「秋田トルコ風呂」跡地に、和風スタンド「秋田銘酒コーナー」と、洋食・釜飯スタンド「GIANTS」オープン。「酒あるところ人がある・・・」の文は、社長と親交のあった俳優・森繁久弥の揮毫。
うたごえ喫茶ブームが終わると「うた声喫茶エデン」は閉店。そのあとに「麻雀クラブ紫蘭」が入り、やがて会館から直営の飲食店が消え、映画館以外は貸店舗となる。昭和60年(1985)頃のテナントは「ミッキーマウス」「雪子」「リラ」「氷雨」。
昭和46年(1971)の大映株式会社倒産をうけて、昭和47年(1972)「秋田大映」は館名を「秋田スカラ座」と改め、東宝東部興業(現・TOHOシネマズ)が賃貸する洋画専門館となる。昭和63年(1988)向かいの「有楽町プレイタウンビル」へ移転し「有楽会館」解体。
「秋田大映」に通ったのはおもに中学生時代。勝新太郎の「座頭市」シリーズ、市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズ、夏休み恒例の「怪談映画」、時代劇特撮「大魔神」シリーズ、「怪獣ガメラ」シリーズなど印象深い作品が多い。
▼村山多七郎氏略歴
明治44(1911)年、横手市の映画館「阿櫻館」を経営する家に生まれる。
京都大学経済学部を滝川事件のストライキに連座して中退・帰郷。映画館経営のかたわら秋田市議会議員に20代で初当選。その後、秋田市役所で経済課長を務め、市の経済行政の処理にあたる。
昭和22(1947)年「秋田中央印刷」設立。
昭和34年(1959)「有楽会館」設立。
経営した主な映画館
土崎映画劇場、阿櫻館(横手)、秋田東宝、国際劇場、セントラル劇場、ムービーセンター、秋田中央劇場、秋田名画座、秋田大映、麻布映画劇場・麻布中央劇場(東京麻布十番)。下記ウェブサイトに両映画館の写真あり。
銀行・国鉄・郵便局など、会社・職場単位の映画鑑賞サークルを組織、女性向け映画を特集した「女性週刊」を実施、映画評論家を呼んで解説させたりと、次々に斬新な企画を打ち出し秋田の興行界に新風を吹き込む。
昭和52(1977)年、有楽町の「秋田東宝」跡地に映画館五館と飲食店が入居する秋田初の複合映画館「有楽町プレイタウンビル」設立。
昭和64(1989)年、秋田市文化団体連盟章
平成7(1995)年、秋田県文化功労章
平成11(1999)年、逝去。享年88歳。
2011.10
「プレイタウンビル」向かいの「プレイタウン駐車場」が「有楽会館」(秋田大映→秋田スカラ座)跡地。その南隣に建つマンション・ルーミ730 の前身は「亀井ガソリンスタンド」。さらにさかのぼって「有楽会館」オープン当時は、戦前からつづく「鈴木内科医院」があった。
北隣に2006年頃閉館した「秋田有楽座」の看板(写真右手)が残る「第一シネマビル」(秋田パンテオン・秋田松竹→秋田有楽座)。経営する「第一商事」は昨年(2011)倒産。
2012.02 有楽会館跡地