今は幻の「殻堀橋」

「長町通り」大正始めころ
「長町通り」とは、川反五丁目橋から通町橋まで、旭川の東を通る土手長町通りのこと。左手には外町と内町を隔てる土手が旭川沿いに連なり、木橋の欄干には「からほり橋」「明治四二年八月・・」の文字が記されている。
撮影地点は、有楽町から五丁目橋を左手に見て、土手長町通りを北に少し進んだ「旧あきたくらぶ」のあたり。ここに橋があったなんて、今となっては信じられない。
藩政期、後の「あきたくらぶ」の地には藩営の米蔵があり、蔵の北側をとりまく堀は旭川に通じていた。この堀を「殻堀(からほり)」という。米は仙北方面から雄物川を舟で運ばれ、旭川に入り、殻堀の米蔵に荷を下ろした。その当時、土手長町は殻堀と土手で切断され、直進することができなかった。
明治四十二年(1879)、堀の両側から土をもって橋を掛けたのが「殻堀橋」。堀の水はしだいに枯れ、大正のころは小さなドブ川になっていたという。昭和七年(1932)、コンクリート橋に掛け替えられるが、戦中には堀を埋立て「殻堀橋」は撤去される。

「からほり橋」周辺
左図・明治元年(黒い太線は土手) 右図・大正期
五丁目橋(横町橋)と四丁目橋に挟まれた赤くマーキングした地点が「殻堀橋」、黄色が「藩の米蔵」があった場所。明治元年の殻堀には小さな橋が架かっている。藩の米蔵を囲んでいた殻堀は、「あきたくらぶ」の日本庭園の池として生き残ったが、戦後、ニューグランドホテルを建てるために大幅に縮小されてしまう。

部分拡大
左手の土手は初代藩主佐竹義宣が、久保田城下町づくりの時、築いたもので、松と桜が植えられ、北は中島から南は亀ノ丁西土手町(有楽町)まで延々と続いていたが、戦中戦後に削られ、現在のように旭川べりまで道が広げられた。
右手のきれいに刈り込まれたイチョウの木は、ニューグランドホテルの場所にあった、医師で書家の赤星藍城(らんじょう・安政四~昭和十二年)家のもので、藍城は、その書斎を「十声楼」と名付けている。その由来は、「殻堀橋」をカラコロと渡る下駄の音、「あきたくらぶ」の弦歌、旭川に櫓を漕ぐ音、つるべ井戸の音など、十種類の音がこの家に聞こえたためという。なんとも風情のある命名で、ほとんど騒音しか聞こえない現代とは隔世の感がある。

現在の同地点
「あきたくらぶ」と「ニューグランドホテル」は倒産し、跡地にはルートインジャパン経営のホテルと、温浴施設「華の湯」が本年五月オープン。かつての堀川の名残であった池を配して、名園と謳われた「くらぶ」の庭園や、長い土塀は取り壊され、すっかり景色が変わってしまった。