旧金子家住宅・町家

秋田市大町一丁目
切妻・妻入り造り
市有形文化財
江戸時代のメインストリートである羽州街道に沿い、商業の中心地であった大町に残る町家・金子家は、安政元年(1854)に質屋兼古着屋を始め、明治四年(1871)に呉服卸売商を創業して以来、昭和五十七年(1982)までこの地で呉服商を営んできた。主家は明治十九年(1886)の俵屋火事で土蔵を残して焼失、再建は明治二十年頃と言われている。
平成八年(1996)秋田市に売却され、九年には江戸後期の町家の特徴を残す貴重な建物として、秋田市指定有形文化財に指定された。
築後百十余年の年月、風雪に耐えた建物は老朽化が激しく、店舗兼住宅として長く使われていたため、使いやすいように改築された部分も多く、土蔵は昭和五十九年の日本海中部地震によって大きく破損されていたため、市では平成十三年(2001)から四カ年計画で復元整備工事を行い昨年完工、土間の三和土(たたき)の乾燥を待って、七月二十八日から一般公開している。

復元前
建物の右手部分は潰され、金子商店のモルタル造りの建物が建ち、廃業後は駐車場になっていた。

通り土間
玄関を入ると右手に店があり、長い通り土間が奥の土蔵まで続く。

店

土蔵(内蔵)
通り土間を進むと突当りに広い土間があり、黒漆喰で仕上げられた大きな土蔵が現れる。
幕末期に造られ、明治十九年の大火・俵屋火事で焼け残ったという土蔵は、主に商品を保管し、通り土間を通って搬入、搬出された。

天水甕(てんすいがめ)
実際に使用され保存されていた甕を展示している
屋上の防火用の天水甕は秋田の町家の特徴のひとつ。
現在は二個の甕が復元されているが、当初は六個配置されていたのを、昭和三十三年ころ、屋根の葺き替えの際に整理して二個にしたという。その後、甕が破損し、しばらくは台が一つだけ残っていた。
日本を愛し日本美を世界に紹介したドイツ人建築家・ブルーノ・タウトは、秋田の町家の屋上に置かれた雨水を溜める器に注目した。著作「Houses and People of Japan」(1958・再版)では、金子家の天水甕が紹介されている。

Fig. 375 Water Vessel on Top of the Roof at Akita
「Houses and People of Japan」(1958・再版) より
屋根の葺き替え後、昭和三十年代の写真、二つの台と一つの甕が見える。
解説にも本文にも建物の名称は載っていないが、間違いなく金子家のものだ。
ただし天水甕が写った写真は初版には載っていない。
1937年刊行の「Houses and People of Japan」初版には、天水甕を紹介する図版として、勝平得之の版画「五月の街」から、手形田中町、橋本酒造店の屋上の天水甕をトリミングしたモノクロ写真が掲載されている。

勝平得之「五月の街」昭和十年(部分)
しかし、初版で使用された挿図の原版が戦災で失われたため、タウトが没してから二十年後に刊行された再版本には、勝平得之が新たに撮影した秋田の写真が数枚使われているのだ。金子家の写真も勝平が写したもの。だから市が作製した資料に「ブルーノ・タウト氏によって世界に紹介された旧金子家住宅」とあるのは、厳密にいうと正確ではない。再版本の図版に関しては、すでに亡くなっていたタウトは一切関わっていないのだから。
タウトが勝平得之の案内で秋田の建物を取材したのは昭和十年五月のこと。当時はまだ多くの町家の屋上に天水甕が存在しタウトの目を惹いたことだろう。大町から通町周辺も歩いているので、六個上がっていたという金子家の天水甕も目にしたと思われる。
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昭和20年代の大町1丁目
金子さんの土蔵の中で、昭和20年代に、遊んだことがあります.
ひんやりとした空気に包まれて、気持ちいい思いと、どこかおどろおどろしいものを感じたのを、昨日のように思い出します.そのような蔵は、秋田市の大町1丁目では、あと、平野さん{藤田ツグジの絵が収められていた}にもありました.金子さんの屋根の上で、防火用のかめに触ったこともあります.なんでこんなところに甕があるんだろうと、そのときには、思いました.冬になると、屋根から落ちた雪が、路地に溜まり、雪かきをしていないところは、身の丈以上に積もりました.そこに二階の屋根の上から、二階の屋根の上ですよ、飛び降りて遊んだものです.ここまで書くと、この投稿者が誰なのか、素性がわかるかもしれません.お判りの方は、このアドレス宛にご一報を.
千秋公園のあやめ茶屋辺りで、一杯やりたいものです.