城下の面影「遺愛の松」名木残影

遺愛の松
2013.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」跡

しばらく見ない間に、亀の町の名木「遺愛の松」が、跡形もなく消えていた。

遺愛の松
昭和47年(1972)吉田直也 『秋田市の木と林と森』より

昭和49年(1974)秋田市指定保存樹 第15号
クロマツ「遺愛の松」推定樹齢400年(保存樹指定時点)

由緒 藩祖佐竹義宣公が常陸(ひたち)の国より国替えの折りに携えてきた鉢植えの松である説や、藩士小助川某が大阪城夏の陣の際、記念に植えられたものであるとの説が伝えられている。
掲示パネル解説文より

「遺愛の松」とは「佐竹義宣公が愛された松」というような意味だが、命名は戦後のことだと思う。

佐竹義宣が大切に携えてきた鉢植え(盆栽)であったとすれば、身近な城内に置くはずで、後述の新聞記事を見ると、小助川なにがしの記念植樹説のほうが、比較的に説得力があるように感じる。

遺愛の松
2005.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」

よく手入れされた盆栽のように、それは見事な枝振りを見せていた「遺愛の松」も、平成3年(1991)の台風19号で大枝を折られたのを手始めに、樹幹および大枝の腐朽(空洞化)が進み、四方に大きく広がっていた大枝を失い満身創痍。近年は御覧のように無残な姿に変わり果て、いつ指定を解除されてもおかしくない状態となっていた。

路上に大きく突き出して、影を落としていた枝も、電線・ケーブル類増設の障害になるため伐採された模様。

遺愛の松
2005.05「遺愛の松」消失物件

晩期はパネルの後ろに鉄柱が立てられ、空洞化した樹幹をワイヤーで支えていた。

平成25年1月10日発行『秋田市広報』の「保存樹指定解除一覧」に当物件が掲載されているところをみると、撤去は昨年の暮れと思われる。

保存樹指定解除の理由は「樹幹の著しい腐朽」。積雪の影響で倒壊したのか、または、倒壊の恐れがあるため、前もって伐採したのか。
 

▼武家屋敷の「さむらいの松」参勤交代の道筋

クロマツ(遺愛の松)のあった中亀ノ丁上町(旧地名)は、中級家臣が住んだ屋敷町。佐竹氏の参勤交代の際は、久保田城・二の丸から大手門通りに出て、広小路、根小屋町、中亀ノ丁、登町、牛島を経由して江戸に向かった。

昭和4年(1929)の『秋田魁新報』に、中亀ノ丁上町のクロマツ(遺愛の松)のことが写真入りで載っている。

遺愛の松
昭和4年(1929)『秋田魁新報』より

藩政時代の面影が残る旧家の黒板塀に、見事な枝振りのクロマツがよく似合う。

クロマツのある御屋敷を守るお婆さんが、魁新報記者に語ったところを要約すれば……、

佐竹義宣公の時代に大坂夏の陣(家康と秀頼の戦い)に出征した小助川なにがしは、戦功を挙げ五百石加増を賜る。その記念として大阪から鎧櫃(よろいびつ)に入れて持ち帰ったのがこのクロマツ。

クロマツの根元には鎧、兜の類が埋めてあると伝えられ、今も根元三尺は踏まぬようにしている。日露戦争の頃は「さむらいの松」と呼んで、参詣人などもあったようだ。

という面白いお話し。

遺愛の松
2013.05 社団法人「秋田県林業土木協会」敷地内

名木「遺愛の松」のあった庭に残る屋敷神の石祠。ひょっとすると、このあたりに、江戸時代の鎧兜が埋められているのかも知れない。


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保存樹「遺愛の松」跡

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